『僕には一点の非もない』上・下

長崎出版

「僕には一点の非もない」
上  事実をもみ消す教師たち

誰もが被害者になり得る「日常の恐怖」

被害者は、なんの理由もなく同級生に全身殴打の暴力を受けた。被害者はさらに、「学校」という名のもとに、教師たちによって、「二次被害」どいころか「暴力の加担者たち」と言いたくなるような仕打ちを受けた。

「『殺してやる』なんて、日常用語で、いま“バンバン!」出てきてますからね。

教師たちは、なぜそうしてまで加害者の嘘に加担し、積極的な援護射撃をしていったのか。

実体験したカウンセラーが、その心理を解き明かす。

2003.10発行
「僕には一点の非もない」
下 高校生暴力事件の二次被害

被害者が一転して加害者とされたとき、親は何があっても「子供の意に添う」と決意した

そのとき被害者は、大学受験の真っ只中にいた・・・。

我が子が心の傷を受けたとき、親はどうやって子供を守るのか。どうやって癒していけばいいのか。

被害者は、被害者のままであってはいけない。

心の痛みを癒すには、癒していくための「作業と時間」が必要なのである。

救いとは、妥協しないこと。行動すること。それが本当の優しさでもある。

現体験を通して、日常茶飯事的に起こっている「二次被害」の本質をあぶり出す

2003.10発行
登場人物はすべて仮名にしてあるが、実際に高校で起こったノンフィクションである。

被害者は、暴行を受ける前にも後にも「一点の非もなかった」。

最初、被害者は、自分が被害者であることを証明しようとしていたわけではなかった。加害者の一方的な暴力に対して、正当な謝罪を求めていただけだった。

ところが、学校は、その暴力事件を「喧嘩」とした。その瞬間から、高校教諭らによる「二次被害」がはじまった。

以来、加害者は、証拠があってもいっさいの事実を認めようとしなくなった。それは、加害者らの嘘をますます強力に後押しする高校教諭らの、積極的な援護射撃があったからではなかったか。

教諭らには、誠意のかけらも、微塵の公正ささえ感じられなかった、彼らは、実際には、事実を語る証言者の存在を知り、事実を掴んでいながら、事件の真相を「水掛け論」として、もみ消そうとしていった。

教諭らは、さらに、唯一の目撃者や証言者の一切合切を無視し、あたかも暴力を肯定し、さらに、被害者を、加害者のごとく攻撃していった。

「『殺してやる』なんて、日常用語で、いま“バンバン!”出てきますからね」
「学校を信頼できないとしたら、もう、あれですね。人間社会終わりですね」
「殴られたおまえの方が、人間性に問題があった。だから殴られても当然だ」
と教諭らは嘯いた。

被害者は一転して、自分の“濡れ衣”をはらさざるを得ない事態へと拡大していった。そのとき被害者は、大学受験の真っ只中にいた・・・。

誰もが被害者になり得る「日常の恐怖!」
親は、子供が追いつめられたとき、何が起こっても「子供の意に添う」と決意した。

暴力事件そのものはともかくも、被害者が体験した「二次被害」は、恐らく、社会のあらゆるところで、日常茶飯事的に起こっているだろう。そういう意味では、誰もが被害者になり得る「日常の恐怖」なのである。

学校という閉ざされた扉の中で行われることだけに、親は手の出しようがない。

子供が傷つけられたとき、親は、どうやって子供を守るのか。子供が受けた傷をどうやって癒すのか。

被害者は被害者のままであってはいけない。「被害者として生きる」のをやめるため、行動して欲しい。

自分が受けた心の傷を癒すには、時間をかけて「癒す作業」をしてほしい。その作業とは、自分を傷つけた相手に立ち向かっていく「行為」そのものである。自分のその行為が、同時に「自分の心の傷を癒す作業」なのだと知って欲しい。

心の傷みを癒すには、癒していくための、「作業と時間」が必要なのである。

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