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第85号 2007. 3 発行 http://www.allisone-jp.com/ info@allisone-jp.com |
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| 最新刊!! 「もっと自分中心でうまくいく」 こう書房 右脳のイメージ的発想では、そのとき気分がいいだけだった・・・。 実生活にも結びつかない・・・。 左脳の思考や言葉だけでは、状況は変らない。 では、どうすればいいんだろうか。 ・・・右脳と左脳を活かすには、感情の脳を中心にして、 自分を愛するだけでいい。自分を解放するだけでいい。“もっと”どころか、 “もっと、もっと”身勝手でも、わがままでもいい。 ただひたすら、自分を愛するだけで、それに比例して、愛も成功も仕事もうまくいく 石原加受子 最新刊!! 「もっと自分中心でうまくいく」 こう書房 自分を愛するだけでいい。自分を解放するだけでいい。“もっと”どころか、 “もっと、もっと”身勝手でも、わがままでもいい。 ただひたすら、自分を愛するだけで、比例して愛も成功も仕事もうまくいく 「人間関係に奇跡を起こす83の方法」(サブタイトル) やり方一つで天国・地獄 大和出版 ちょっとした発想の違い、やり方、行動の違いで、「まるっきり正反対の結果になるんだ」と納得できる本。あなたの環境と人間関係が天国となるか地獄となるか、それはあなた次第です 「欠点を長所に変える話し方」 PHP研究所 「欠点」を「長所」に変える!/「不安」を「安心」に変える!/主張する/断る/謝る/叱る/決断する/リスクを回避する/マイナスをプラスに変える逆転法 「自己解決能力を獲得する法」 (みずほ銀行の)みずほ総合研究所 思考すればするほど、悩みもトラブルも増えていく。具体的に行動して初めて解決する。自己解決能力を飛躍的に伸ばす。その実践法を小冊子に凝縮 「願いをかなえる人になるシンプルな方法」 大和出版 「好き嫌い・快不快・苦楽」を基準にして生きたほうが楽に生きられる。自分の気持ちにフタをしないで、感情を解放させれば、すべてがうまく回りはじめる。 メルマガ無料配信中! 月3回 毎週水曜日発行 オールイズワンの「ホームページ」トップページから、登録できます。 簡単な問題やご質問を、マガジンページ内でお答えしています。 |
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| 自分を愛するか、相手を愛するか 石原 加受子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「自分が犠牲になる」という点について書いてほしいという話をいただいた。 私自身が、もともと「同情の支配」に極端に弱かったせいもあり、また、自分中心心理学での分類では、「犠牲者」を自認してもいる。 ただし、最近は、新刊でも書いているように、自分が納得する範囲での犠牲者であろうと努力している。 ときには、意識して「暴君者」にもなってみたい。 また次の新しい本に向けて、原稿執筆がスタートする。 このときは、私の挑戦として、「暴君者モード」で書き進めみたい。 自分の中にある、それぞれの要素を「認めたい。受け入れたい」。さらにそれらを活かしたいからである。 「さて、何を題材に?」 恋愛で書くか、家族問題で書くか。 恋愛は「相手が好き」という感情にからめとられて、相手のいいなりになりやすい。これを愛情だと勘違いしている人もいる。 家族問題においては、なんといっても、「同居するかどうか」が、ダントツである。 などとあれこれ思いを巡らしていたとき、ちょうど、共時性で、「犠牲」というテーマにあったメールをいただいた。 関係のある部分だけを抜粋させていただく。 《(夫の両親との)同居(または別棟)の話がでるではないかと不安もよぎります。 私のシンプルな感情では勘弁して欲しいです。外野の声を無視(自分の意見を言えるのか)できるのか、自分の気持ちを大切に出来るか、不安です。 現在も特に離れたところに住んでいるわけではなく車で15分ほどの場所ですし、それで困るとは思っていません。 義理家に行くたびに、 「どれだけ自分たちが苦労して生きてきたのか、早くこの家を継いで欲しい、もう疲れた」と言われてきました。 先日は舅が、夫に、 「親孝行できるときにしておかないと、死んでから後悔するぞ」 と言ったそうです。 以前、私が、 「自分はどうも罪悪感が強いようなんだよね」 と夫に話したところ、 「俺もそうなんだ、なんでだろう」 と言っていたのを思い出します。 長男の夫は幼い頃から「長男だから」という声を耳にしてきたことと思います。》 典型的な「同情の支配」である。 自立しようとすると、「同情の支配」で待ったがかかる。 「同情の支配」は、自立することを、許さない。 それぞれが抱き合い、もたれ会っているために、「私が、自立しよう」とすると、激しい罪悪感にさいなまれる。 この「同情の支配」が高じれば高じるほど、貧困、精神的病気、肉体的病気に見舞われる。 「こんなにつつましく、悪いこともせず、人を思いやり、隣近所にも腰が低く、親切に善良に生きているのに、なぜ?」 とその人は呻吟する。 それに対して、こんな声をいただいた。 「同情は、日本人の美徳なんじゃないですか。どうして同情が悪いんですか」 「同情が悪い」 というつもりは、まったくない。 そもそも私自身が自分のテーマとして絶えず意識しているのは、「良い悪い」「正しい正しくない」といった価値判断ではない。 それが「良いのか悪いのか」「正しいのか間違っているのか」の絶対的な基準はないと思っているからだ。 それは人によっても異なる。 無意識の観点から見れば、なおさら、一見、悪いことが起こっているように見えて、そこにもメリットがあるからだ。 (もちろん、「相手を認める私を認める」という「選択の責任」は、前提としている。) だから私は、 「私自身が、それをやっていて、つらいかどうか」 という見方(感じ方)を基準にしたいのだ。 さらに重要なのは、 「そして、その結果、どうなったか」 である。 それが正してくても、どんなに愛していても、その結果どうなったか。その結果が、自分にとってつらいのか、幸せなのか、満足なのか。状況が良くなったかどうか、物事がうまく進んだかどうか。 ここで言えば、 「同情の支配をしたり、私が同情の支配に乗ってしまうと、嬉しいか、楽しいか、辛いか苦しいか」 が基準となる。 この結果も重要である。 「つらい思い、苦しい思いをして、でも、結果として良くなった」 「つらい思い、苦しい思いをして、結果としては悪くなった」 「つらい思い、苦しい思いをして、結果として現状維持」 「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として悪くなった」 「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として良くなった」 「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として現状維持」 どんなやり方をしようが、具体的な可能性としては、上記に列挙したものでしかないだろう。 結果のほうが真実とする。 どんな方法をとったのか。 どんなプロセスを経たのか。 それは辛かったのか、楽だったのか。 その結果、どうなったのか。 もちろん理想は、 「つらい思い、苦しい思いをしないで、結果として良くなった」 誰もが望むところだろう。 (とは言いつつも、多くの人が、無意識の点からいえば、「苦労しないで良くなる」ことを、心から望んではいない。) 机上の空論と捉えられるかも知れないが、理論的には、 「自分中心」であればあるほど、「楽あれば、楽あり」である。 「自分が犠牲になるかどうか」という点については、 「私が自覚する」 ほうが望ましい。 「犠牲になるな」 と言っているわけではない。 「犠牲になるのもつらいし、犠牲にならないのも、心が痛む」ものである。 だから、 「私は、ここまでだったら、犠牲になってもOK」 「ここまでの犠牲には、なりたくない」 という、犠牲になるその範囲を、自分自身が設定できれば、多少迷惑をかけられても、覚悟できる。少なくとも、その結果を、悔やんだり、相手を恨んだりしなくていい。 しかし本来は、 「私は犠牲にならない」 ほうが、うまくいく。 「私が犠牲になる」ことは、誰かが「それで依存している」ことになる。 (ただし、ここで勘違いしていただきたくないんだけれども、「犠牲になる」意識と、「私自身が愛をもって協力したい。関わりたい」という意識とは、厳密に分けて捉えていますからね。) 犠牲になることと、愛をもって育て合うこととは違う。 犠牲になると、結果としてうまくいかない。 愛をもっていれば、歩み寄れる。 (心からの)譲り合う気持ちが育つ。 愛は、結果はうまくいく。 愛が犠牲か同情かわからない。 もちろんだ。 だからこそ、自分の感情と、「選択を責任」を私は基準にしている。 私の20年間のカウンセリング生活のデータとして導き出した(目下のところの)結論として・・・。 例えば「自分を愛するか、相手を愛するか」という点でいえば、「自分を愛する」ほうを選択したほうが、結果としては、うまくいく。(ただし、この「私を愛する」ということに関しては、自分の自己肯定感のレベルの「内的感覚」が大きなウエートを占めるが。) 新聞だったか雑誌だったかで、どんな悩みが多いかのデータをとっていて、最も多いのは職場での人間関係で、次に親族つき合いとなっていた。 最近いただいたメールで、「夫の実家に泊まるのが苦痛」という相談があった。 これを、 《「選択の責任」を基準にして「相手を愛するより、自分を愛する」》 というスタンスで捉えると、どうなるか。 まず、 「それぞれが、それぞれの家に帰るのは自由だ」 夫は夫の家に、自分が帰るのや自由。 妻が妻の家に、自分が帰るのは自由。 こうなる。 もちろん、相手の実家にも気持ちよく行きたきという人もいるだろう。そのときは、「私が一緒に行きたい」という気持ちを大事にして、「一緒に行く」という行動をする。 これは、欲求(感情)と行動が一致しているから、満足度が高い。 そのメールによれば、 「私は、夫の実家に泊まりたくない」 でも、「無理した泊まった」。それが苦痛でならなかった。 他方、本家に行けば、本家の嫁もいる。 そのとき、本家の嫁はこう思っていた。 「わざわざ布団を干して、新しいやシーツを用意して、まったくうッ、ただ飯まで、食わせてやんなきゃならないんだからッ」 ところが親しい親友同士だと、まったく同じ状況が、 「会えて嬉しい。泊まってくれて嬉しい」 となる。 親戚づき合いとなると、つらく。 親友だと、嬉しい。 要は、意識の問題である。 上は強制、束縛。べき思考。つまり人間脳の発想。 下は自由と善意や愛情。つまりこれは、感情脳(愛情)からの欲求。 もちろん、嫁姑の問題も、「自由と善意や愛情」があれば、うまくいくだろう。 それをむずかしくするのは、 「嫁だから、姑だから、長男だから」 という意識。 これをいったん、取り除いてから「選択の責任」で行動してみると、どうなるだろう。 それこそ家庭の在り方はさまざまで、 「婚家に尽くすの嫁の役目、当たり前」 とばかりに、妻というより、嫁意識が強い妻がいる。 かと思えば、結婚して〇〇年にもなるのに、いまだ、夫にとっての家庭は、「妻がいる家庭」より、実家のほうをファミリーだと思っている人も少なくない。 当然のことながら、その反対もあり得ることで、妻のほうが実家と密着していて、夫は「収入源」や「種ウマ」の存在でしかない、という夫婦も最近増えてきた。 いったい自分のファミリーはどこなのか。 夫の古いファミリーに、妻が嫁として属するのか。 妻の古いファミリーに、夫が婿として属するのか。 それとも「新しいファミリーに夫と妻があり、これが家族」なのか。 家長制度はとっくに(形の上では)崩壊したのに、違った形で、夫が、あるいは妻が、生家から離れようとしない。こんな傾向が、いっそう顕著になってきている。 基本は、 「妻と夫と、新しいファミリーを築く」 要は、この意識が、あまりにも希薄・・・。 基本、軸がしっかりしていなくて、誰が他の人を愛することができるだろうか。 私を愛することができるから、相手を愛することができる。 夫婦が信頼し合えるから、両者の「元家族」を大事にしたいという気持ちが出てくる。 この意識を夫と妻が持って、これを軸にできれば、そのから信頼が生まれ、お互いの「元家族」を大事にしようという気持ちが芽生えると、私は思うのだけれども、いかがだろう? その選択肢として、前回書いたように、 「それぞれが、それぞれに、自分の家に帰る」 こんな選択をするのもいい。 「お互いが、お互いの実家に、それぞれ帰る」 そんなことをしたら、とんでもないことになってしまう。 と言うのは、「頭で思う」こと。 実際に、そんな「嫁・婿」から解放された気持ちで実践してみると、どうなるか。 実行してみると、身勝手になるどころか、心が自由になって、相手に対してもやさしくなれる。 それを実感してほしいと思う。 ここが頭で理解することと、実践してみることの違いである。 |
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| 人生への安心感 西岡利晃 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 楽でいられると、自然と落ち着いて対応できる。 周りの展開は目に見え、感じてはいるが、 自分に基準があるので、余計な感情が発生しない。 (他者に対する攻撃的な感情や、批判的な思考など・・・) 自分の純粋な、感情が浮き上がって見えてくる。 (自分の気持ちや感覚と感情) その感情をそのまま言葉にする。 最初は矛盾した言葉や、おかしな日本語であっても、 繰り返すうちに次第に、整った言葉になってくる。 自分が日常の争いごとに、巻き込まれることが少なくなり、 自然とより良い展開が増えてくる。 同時に、自覚できる共時性も増え、 意識することが現実化することも多くなる。 自分の顕在意識と無意識の焦点が一致してくる。 まるで何か大きいものに見守られているような感覚でいられる。 人生への安心感が広がってくる。 |
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| 自分中心の自己主張 石原加受子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「他者中心」の自己主張は、争いの種になります。 「自分中心」の自己主張は、自分自身を愛するため、自分を表現するためにあります。 言葉は、エネルギーです。 自分を傷つけることもできれば、自分を癒やすこともできます。 「他者中心」の自己主張は、相手だけでなく、自分自身も傷つけます。 「自分中心」の自己主張は、自分を癒やします。マイナス感情が解消されます。 第一の感情は、相手の心に届きます。 自分を愛するための自己表現が、結果として、相手との心の距離を近くするのです。 さらに、怖い相手は、近寄ってきません。だから、自分を守ることもできます。 「他者中心」の自己主張は、マイナス感情を蓄積させ、自分をつらくさせていきます。 「自分中心」の自己主張は、感情の解放です。プラス感情を循環させます。 自己主張と書いていますが、実は、自己表現なのです。 絵画、音楽、写真、バレー、ダンス、野球、映画、文学等々、全てが芸術です。言葉も、そういう意味で芸術であり、創造です。 言葉のエネルギーは、物事を創造する種とも言えます。自分の言葉が、人生を彩っていきます。 いつもつぶやいている言葉。それが形になっていきます。 それが否定的つぶやきだとしたら、否定的なものが形になるでしょう。 例えば、「会社に行きたくない」と、つぶやけば、行かなくていい状況を、つくっていきます。 肯定的な言葉をつぶやいているとしたら、肯定的なものが形のなっていくでしょう。 言葉というより、言葉の響きのエネルギーが原形となって、形をつくっていくのです。 それはまた、そのまま、肉体にも影響を与えます。 だから、汚い言葉より、自分にとって心地よい言葉、気持ちのいい言葉を遣う方がいいのです。 |
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| 話題になっている都知事さんの6年周期リズム 石原加受子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 6年周期リズムでいうと、都知事の石原慎太郎さんは、いま隆盛期です。 隆盛期なのに、特別良いことは起らなかった。 いえ、まだ、今年は3月ですから、これから、良いことが起るのかもしれません。 ただ、隆盛期といっても、年齢的なものもあります。 すでにかなりのお年ですので、エネルギーそのものが落ちています。 だから大きなイベントは、起らないと。 逆に、隆盛期なのに、彼は(小さな)スキャンダルで叩かれています。 あれっ? 隆盛期って、「いいことが起こる」のではなかったんですか。 表面的な見方で言うと、 「そうです」 でも厳密に言うと、そうではありません。 隆盛期であっても、表面的には、悪いことが起こります。 つまり、「良い悪い」「得する損する」という考え方では語れないのが、6年周期リズムであり、「意識の法則」なのです。 ただし、トラブルが起こっても、大きな痛手にはならないでしょう。 危ない橋を渡りながら、命拾いすることもあります。 隆盛期には、悪いことをしていても、どこかで救われたりするのです。 一般的には、隆盛期は、現象的には「良いこと」が起こります。 その隆盛期にもかかわらず、「悪いこと」が表面化するとしたら、「意識の法則」でいえば、その奥に、かなり大きな問題が横たわっているということになるでしょう。 隆盛期には、危ういところで胸をなでおろし、命拾いします。 けれども、この隆盛期の時期にこそ、それを自覚し、襟を正して修正することが重要です。というのは、それを修正しないままやり過ごしてしまうと、浄化期に、その同じテーマで、今度は、大きな問題として現われやすくなるからです。 平成19年2月9日づけの記事に、5億円強奪し、時効となっていた男が、信用金を襲い、逮捕されたという記事がありました。 「なぜ、5億円も、もっていたはずなのに、また強盗だなんて」 と、誰でも思いますよね。 これが「意識の法則」なんですね 。 隆盛期は、どちらかといえば、顕在意識が抱くもののほうが叶いやすくなります。 隆盛期に起こったトラブルは、「意識の法則」に則って適切に修正しておかないと、隆盛期にうまくやり過ごせたとしても、それが浄化期に向けて顕在化していくでしょう。 浄化期には、自分の言動の清算が、急速にやってきます。 清算のしかただって、かなりミクロの世界つまり一円でもオマケしないということなんですよ。 どうしてそうなるのか。 これが個人を超えた“意識の調和”のメカニズムから起こる「意識の法則」なんです。 (この意識の調和というのは、時空を越えた世界を意味しています。) これを個人的に言うと、「自分が自分でやったことを清算する」とういうことです。 自分の撒いた種は、その種が良くても悪くても、自分自身が収穫することになる。人が肩代わりすることは、一切ない。 ミクロの責任も、自分が刈り取ることになるのです。 念のために言い添えますが、これは「罰」ではありません。 自分が自分の間違った罪悪感で、自分を罰することもありますが、それを超えた次元でも「調和の法則」が働くのです。 個人の間違った罪悪感で自分を罰するのは、自分がそう信じているからです。 「調和の法則」は、この個人の間違った罪悪感を超えたところで起こります。 この「個人の理由」と「調和の法則」によって、5億円強奪犯は、5億円を失った(のでしょうね。また同じパターンで強盗を働いたぐらいですからね)。そして捕まる。 これもまた、償いから、 「自分を罰する方向に、自分が自分で持っていった」 というわけです。 「償いたいけど、償うのは怖い」というように、自分の意志を明確に持てないと、「捕まる」という形で、その償いを果たそうとします。 と同時に、この状況には、ほかにも、もろもろの意識がからまっているんですよ。 例えば、 「もう逃げ疲れたから、楽になりたい。ゆっくりしたい」 その人の心理を探れば、その他、もろもろの個人的な理由が。そこには、自分自身以外の人との関連もあります。 「意識の法則」と「6年周期リズム」は、こんなふうに個人の意識、他者の関連した意識、宇宙的な調和の意識等々が、複合的に統合的に働いています。 これを探るのが、面白いんですね。 隆盛期には、自分の望みが叶います。 ところが、それを大幅に裏切ることがあります。 隆盛期なのに、客観的には「悪いこと」が起きているように見える。 ところが、本人の無意識を探れは、それが心の奥で望んでいたことだったりします。 本人の望みと、一般的に言われる「成功」とは、意味が違うのです。 周期リズムだけでは語れない、ここのところが「意識の法則」なんですね。 むしろ、こちらのほうこそ本質です。ここに、詳しい状況をみて診断する意味があるのです。 これは、「都知事さんのこと」と限定しているわけではありません。 けれども、多くの著名人に当てはまるパターンのひとつです 例えば、「自分の地位を維持していたい」「けれども、実際のところは、もう、体力的にも知力的にも能力的に自信がない」としたら、どうなるか。 いったん、その地位を手に入れたものの、その地位にしがみついたまま、「体力的にも知力的にも能力的に自信がない」ということが、浄化期に向けて、次第に、あるいは一気に形になって現れるということです。 場合によっては、「戦わないまま、負けない」状態を選択することもあります。 しかもそのときは、自分自身が、「自分を罰する」ような形で起きます。 人を引きずり落としていれば、引きずりおろされる。 差別していれば、差別される。 つまり、自分自身の修正すべき点を、自分自身があらわにしていくということです。 こうなると、仮にトップに立ったとしても、 「引きずりおろされる」を経験するために、トップに立つ。というふうに意味が違ってきます。 ですから、さらに詳しく診断するには、前の浄化期、前の隆盛期も加味しなればなりません。 さらに、形に現れるのは、個人だけの理由ではないから、ややこしいのです。 その現象には、妻や子供の意識も加わります。 例えば、夫が妻に対してどう思っているか。 夫が、子供たちに対して、どう思っているのか。 反対に、妻が夫に対してどう思っているのか。 子供たちが、父親に対してどう思っているかも関係してきます。 無意識の世界では、それぞれが、自分を中心として、周囲との関係の中で「意識の法則」「調和の法則」が複合的に、統合的に働いて、それが形となっていきます。 だからこそ、「自分を知る」ことが、自分の未来を創る種となるのです。 |
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| ある日学校で 宮崎 久実子 七十八 |
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| A子は突然泣き出した。 どうしたのかと尋ねたところ、母親とうまくかないとのことであった。 「何をしても怒るし、努力しても認めてくれないんです」 「たとえばどのようなこと?」 「出来ないから学校に残って勉強をしてたんです。先生に質問をして帰るのが遅くなったら『どうせ遊んでたんでしょ』と信じてくれないし、何をしても、あんたなんかといって認めてくれないんです」 「では、自分から、このようなことをしてたと言えばいいじゃない」 「前は言おうとしたんですけど、いつも馬鹿にされるので恐くて嫌なんです」 「じゃあ、一方的に怒られているわけ? 黙っていたら気持ちが伝わらないじゃない。 少なくとも、相手が怒ったとしても自分の気持ちを伝えたり、何を考えているかを伝える事が大切なのではないの?」 「うーん」 「では、あなたは、相手が一方的にまくし立てている時、どうしている?」 「黙っているか、自分の部屋に入ってしまいます」 「でも逆にあなたがその立場だったら、どんな気持ちがする?」 「うーん、無視されたと考えます。なに考えているかわからないし」 どうやらこの親子はコミュニケーション不足のようです。 つづく |
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